出典:pixbay
以前、友人が
「わー、また課題がやってきたー。」
と叫んでいたことがありました。
うんうん、わかるよー。
健康でいたい
良好な人間関係を保ちたい
お金がもっと欲しい
なんて思っているのに
災難がふってきて、
対処して やれやれと思ったところへ また一難がやってくる。
一難去ってまた一難です。
いったいつになったら 自分の望む人生になるのやら。
どうして?
と考えたことあって、 その時、聖書の一節を思い出しました。
アブラハムが神に試された話
私はキリスト教徒ではありませんが、
聖書は読んだことがあって、今でも本棚にあります。
聖書は高校へ入学したときに、
新入生全員へ配布されたのでした。
校訓は釈迦の教えの『中唐』だったし、
キリスト教系でも仏教系でもなかったのですが、 なぜか配布されたのです。
ずっと本棚に入れたままでしたが、
この世の中について考えだしてから
聖書と切り離せないと思ったので読んでみたわけです。
このまま書き進めると
話が違う方向へ行ってしまうので、話を戻します。
神は優しい存在ではなかった
聖書には、不思議なお話が出てきますが、
その中で、私が疑問に思った一節がありました。
神がアブラハムに息子のイサクを生贄にしなさい。
と命じたところです。
旧約聖書、創世記の22章の一節です。
イサクはアブラハムが
100歳を超えて
やっと授かった大切な息子でした。
神はなんて残酷なことを命じるのだろう?
本当に神なのか?
と私の頭の中は疑問でいっぱいになったのです。
息子を生贄にと命じた神でしたが、
アブラハムがイサクをたきぎの上に縛り、
刀を振りかざした時、神は
「その子に手を下してはいけない。 あなたが神を恐れなかったことがわかりました。」
と言い、やぶに角をひっかけていた雄羊を
代わりに丸焼きにして生贄にするように命じたのです。
神は優しいものだと
勝手な印象を持っていましたが、残酷なのだと気がつきました。
その残酷とは、親が子を育てるような意味です。
私達はいつも神に試されているんだなー
と思うようになりました。
自分が変わるだけで環境が変わる
過酷な環境や 好ましくない人間関係を
経験するのは 試されているのだなー と思うようになったのです。
引き寄せの法則では、
すべての出来事は自分が引き寄せているとされています。
例えば、職場で苦手な人間関係を
避ける為に転職しても、また似たような人がいて、
その関係から逃れられない。
そして、対処できるように
自分を変えることができると
その人は自分の目の前からいなくなるという法則です。
その場を離れたからといって、
また似たような環境が待っているとは
100%そうだとは思いませんが、
自分が変わると自分が転職しなくても
相手が転職して目の前からいなくなったり、
周囲が動いてくれたりすることは経験したことがあります。
仕返しも必要ない
自ら騒いだりしなくても、
自然と自分にとってふさわしい環境へ
動く流れになるから不思議です。
心にもないことをされると
悲しくなるし、場合によっては
仕返しをしてやろう、 などと思い、
その気持ちを消そうと思っても
なかなか消えないこともあります。
自分で仕返しをすることは出来なくても、
相手に不幸がふってくるといい、 などと思うこともあります。
ですが、そんなことを思う必要すらない
こともわかりました。
私達はアブラハムのように試されていて、
頭でわかって行動で示すまで何度も試されるようです。
まとめ
災難が起こった時に、
「あ、試されてる」 と思うと、
相手を恨んだり仕返しをしてやろう
などと思わなくなるから不思議です。
好ましくないことが起きて
ハッピーな人なんてほぼいないです。
ポジティブのように見える人でも心の中で、
考えを改めて 前に進むようにしていることが多いものです。
出来事を悔やんだり
自分を責めたり
相手を責める必要はなくて
「神に試されている 」と思って対処するだけです。
対処ができるようになると
神はアブラハムに命じたように
「あなたは神を恐れなかったことがわかりました」
とその苦しみから解放してくれるはずです。
引き寄せの法則でいうところの
もうその苦しい引き寄せは起こりませんよ。
ということです。
反対に、いつまでたっても
恨んだりグダグダと固執していると
神は何度も息子を生贄にせよ。
と命じてくるようです。
引き寄せでいうところの
嫌な人から逃れるために 転職したけど、
同じような人がいて また似たような人間関係に苦しんでしまう法則です。
旧約聖書、創世記の22章の
意味が理解出来なくてイスラム教徒の
知人などにも訊ねたこともありましたが、
今では、私達もアブラハムのように日々
神に試されているなと理解するようになりました。
引き寄せの法則と絡めてもわかりやすいです。
また、この一節から、
不安を抱いたりぶれたりしなくてもいいんだよ、
ということもわかります。
神に最愛の息子イサクを
生贄にしなさいと命じられたアブラハムには
神を疑ったり悩み続けることはなかったようなので。
ちなみに、アブラハムは
神に命じられて従うなんて
ひどい親だ、毒親だ、などと思っていては
この物語が言わんとしていることは伝わりません。
あ、私はキリスト教徒はないので、
神はイエスだと思っていないし、 その他の誰かだとも思っていません。
ですが、この世の中を知るには、
まずは聖書を知らないと、と思ったので読んだわけです。
世の中にはまだまだ知らないことがたくあんありますが
まずは聖書なんですよね。