恋愛・婚活

美しくなるために必要なこと

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私は美しいものが大好きである。

これは私に限ったことではなくて、世の女性たちや男性の中にも美しいものに心奪われたりする人もいる。

 

特に女性は自分自身が美しくなりたい!
と思っている人も多く、日夜、美を目指して頑張っている人もいる。

 

その頑張りの中身は、美容、スポーツ、ダイエットが主だとは思うけれど、それは基本であって、もっと他にあるのではないか、と思っている。

 

まぁ、これは私が美しいと思う基準なのであって、美しさの基準は人によって様々であるわけだけど。

 

ここでは、世界的に有名な俳優さんたちから感じた美について書いてみることにする。

 

 

ルキノ・ヴィスコンティの作品に出演していた美しき名優たち

 

私は生活全般で美しいものが好きなので、映画も美しいものが大好きだ。

 

美しい映画を作り上げる監督といえば、ルキノ・ヴィスコンティである。

 

今年は、ヴィスコンティの生誕110年、没後40年ということで、春頃に映画が上映されたようだった。

 

私は残念ながら、今年に入ってから手術先を探したり、術後経過が悪く静養にしていたため、つい最近、やっとトレイラーを見る事ができた。

 

そのタイトルは、『ヴィスコンティと美しき男たち』。

 

美しき男たちとは、アラン・ドロンとヘルムート・バーガーのことである。

 

ヴィスコンティ映画に必要な役者たちであったと同時に、ヴィスコンティが愛した人たちでもあった。

 

アラン・ドロンは子供の頃から知っているけど、ヘルムート・バーガーのことはあまり知らなかったし、映画からも美しいと思ったことはなかった。

 

けれど彼は、美青年として評判だったようだ。

 

トレイラーの字幕に『輝きは不滅』とあった。

 

これはヴィスコンティの作品のことを指しているのであって、二人の男優のことではないと思った。

 

現に、ヘルムート・バーガーの現在の姿に当時の面影はないから。
とても同じ人物とは思えないほどである。

 

美を失った人

 

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出典: 『ヴィスコンティと美しき男たち』トレイラー

 

ヴィスコンティが亡くなってからヘルムート・バーガーの人生は変わり始めた。

 

「あれ程心から僕を愛してくれる人はもう二度と現れない」
「ヴィスコンティの未亡人」

 

と自ら語ったと言われている。

 

彼にとっては、尊敬してやまない人、父親以上に父親であったと同時に恋人でもあった存在を失ったことは大きな痛手であった。

 

月2万2千円の年金生活をしていると語っていたこともあった。

 

彼にとって、ヴィスコンティの存在はあまりにも大きかったようだが、ヴィスコンティから学んだことはたくさんあったはずだ。

 

ルキノ・ヴィスコンティと言えば貴族出身として知られているが、貴族といってもヴィスコンティ家はイタリアのミラノに代々続いた貴族であり、ミラノの芸術・文化の中心を担っていた

 

そのため、後継者である子供のルキノも音楽や芸術の教育をうけていた。

 

幼少の頃から本物の芸術に囲まれて育ったことで、おのずと美意識が培われるのも納得である。

 

そうなると、高い美意識が当たり前になる。

 

よく、「若いころから本物に触れなさい」と聞くが同感である。

 

ルキノ・ヴィスコンティの映画のセットで使われた調度品はすべて本物。
高い美意識には手抜きという概念はないのだ。

 

そのような貴重な人物と私生活でも恋人として寵愛を受けていたヘルムート・バーガーは一体何を学んでいたのだろうか。
と不思議になる。

 

大切な人を失って嘆き悲しむことは仕方のないことであるが、今、ルキノ・ヴィスコンティが見ても、年齢は重ねたがせめて品性があると生前と同じように寵愛される人であって欲しいと思った。

 

より美しく変貌した人

 

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 出典:パットの気まぐれブログ

 

ヘルムート・バーガーとは対照的に、ルキノ・ヴィスコンティの作品に出ることで、輝きを増した人もいた。

 

それは、女優のシルヴァーナ・マンガーノである。

 

彼女の作品を初めて観たのはヴィスコンティの『ベニスに死す』だった。
60回以上は観ている映画である。
同性愛の映画だと言う方もいるが、ダーク・ボガード演じる主人公の中年男性は異性愛者であり、この映画の中に登場する美少年のタッジオ(ビョルン・アンドレセン)に性的感情はもっていない。

 

マンガーノは演技力に加えて、あまりの美貌と品性の美しさに、同じ女性ながら惚れ惚れと見入ってしまったほどだ。

 

調べたところ、1930年生まれのイタリア出身の女優であった。

 

ミスローマに選ばれたこともあり、元々美人で豊かなバストにほどよくお肉がついたヒップ、ウエストはわざとらしくない締り具合で長い美脚の持ち主だった。

 

その後、ヴィスコンティと出会ってからその美しさが変わった。

 

それまでは、豊満なボディの明るいセックスシンボルのイメージで、その後はソフィア・ローレンに似たような風貌になり、ヴィスコンティの映画では豊満なボディという印象はなく、それまでまとっていた美を殺ぎ落とし、真の美しさのみになったかのような女性へと変貌した。

 

華道では、究極の美を表すために、ギリギリまで枝や花にはさみを入れる。
プラスの美ではなくて引き算の美である。
その美を作り上げるには、バランス感覚や審美感が必要になる。

 

マンガーノからはそのような美を感じる。
変身を遂げた理由を確かめる術はないようなので、真相はわからないが、きっとヴィスコンティの影響だろうとは思う。

 

マガーノはバーガーよりも一緒に過ごす時間は少なかったはずだが、すべてを吸収したのだと思う。

 

お金で買えないものよりお金を選んだ男

 

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出典:LAUGHY

 

アラン・ドロンと言えば、ハンサムの代名詞だったくらい二枚目で有名だった。

 

ヴィスコンティの映画『山猫』を最後に、ギャラが安いからとヴィスコンティの元を去って行った。

 

芸術、文化、教養、美意識、振る舞いなどの軽々しく得ることができないものよりも、お金の方が大切だったのだ。

 

その選択を、<なるほど>、と思うような印象もあった。

 

何年も前に、どこかの雑誌でこんな映画評論を読んだことがあった。

 

「アラン・ドロンが貧乏くさい役をしているのが合わない」
「整った顔をしているのだから、位の高い役じゃないと。」

 

というような内容だった。

 

私はこの映画評論を読んだ時、まったく逆で、「貧乏くさい役がぴったりなのに」と思った。

 

私はアラン・ドロンが出演した作品をすべて観ているわけではないけれど、『太陽がいっぱい』『サムライ』などから貧しい役柄がしっくりくる印象がある。

 

映画以外でアラン・ドロンを見たのは来日したときのTV番組の特番だった。

 

スタジオが暑かったらしく、扇子をパタパタと仰ぎながら、スタジオに集まった日本の女性ファンたちの質問に快く答えていた姿だった。

 

映画の印象からハンサムな男性のイメージを想像していたけれど、その印象は残念ながらジェントルマンではなくて品性がないな、というものであった。

 

ヴィスコンティの元を去ったわけだけど、その理由は、バート・ランカスターよりもギャラが安いからアップして欲しいとヴィスコンティへ迫ったからだと言われている。

 

アラン・ドロンが大ブレイクした『太陽がいっぱい』は1960年の公開。

 

その同じ年、バート・ランカスターはアカデミー主演男優賞も受賞しており、アラン・ドロンからすると大先輩である。

 

『山猫』は1963年公開なので、世界的に大ブレイクしたからといって、大先輩とギャラを比較してあれほどの名監督であり芸術や文化などの高い美意識が自分の一部になっている人物と絶縁する道を選んだことからも、品性を感じなかったことや貧乏くさい役がぴったりだと思った理由がわかるような気がした。

 

美しくなるために

 

ルキノ・ヴィスコンティの映画に出演していた3人の名優について、美を通して個人的な印象を書いてみたわけだけど、男性で品性のある美を身に着けるのは難しいことなのだと思った。

 

アラン・ドロンは品性などには興味がないのが伺える。

 

マンガーノは、年齢や写真によって顔や雰囲気が別人のようなところを見ると、環境や周囲の人々などから学び吸収して、それらを真似ではなく、自分の美意識として作りあげることができる人なのかと思った。

 

演歌歌手や落語家さんたちには弟子がつくもので、弟子は歌以外にも、行動を共にすることで歌以外のこともその師匠から学ぶ。

 

私たちが美しくなりたいと思ったら、自分が美しいと思う人から学ぶことだ。

 

最初はファッションやメイクや話し方、歩き方などの真似から入っていく人が多いと思うけど、その人が好きなもの、例えば、好きな画家、映画、小説、旅先なども知り、それらを真似るだけでなく、それらから学び吸収し、自分の美を作り上げることができて初めて美しくなれるのだと思う

 

真似で終わっているから、似たようなキレイな女性はたくさんいるけれど、圧倒的な美しさを放つ女性を見かけないのかもしれない。